(私は仏さまになりたいが、条件があるようだ)
2025年10月
今まで親鸞さんの教えを学んできて、ご本の中で出てくる「仏さま」について、いつも気になっていて、「仏さま」って「なに」と思っていました。
そんなつまんないことを思っていたのかと、お思いでしょうが、私にはよくわかりませんでした。
仏さまと言えば、一般的には亡くなった方を言うようですが、お釈迦さまだけは、現世(生きているうちに)で唯一、仏さまになられた方(悟りを開かれた方)と言われています。
仏教ではもっと深い意味があることを、主観的ではありますが、私なりにやっと知ることができました。それがすべてとは思いませんが、一端を知ることができたと思います。
それは「仏さまになる」とは「悟る」と同じということで、「仏さまになること」とは、「迷いの世界が無くなること」を言うようです。これが今回知ったことです。
ということは、まず、私は仏さまには現世ではなれないと言うことです。しかし、ある条件を満たしていけば、死んで往生するときには、なれるかもしれない、ということのようです。仏教の解釈は、死んだら誰でも仏さまになれるというものではないようです。
ここで言う、ある条件を見ていきますが、死んでからのことなんかを気にされない方もあると思いますが、法然さんや親鸞さんは死んでからのことも考え続けていて、その結論(解決)に至っています。
死んでからのことを「後生の一大事」ととらえていました。後生とは死んでからのことです。
お釈迦さまは苦しみの元は煩悩や迷いであるとおしゃっており、現世で死後の問題(後生の一大事)を解決すれば、現世でも、来世でも何があっても変わらない幸せになれると教えられています。
できるだけ煩悩の火を消していくことが必要と知りながらも、死ぬまで消すことも、無くすこともできないのが人間であると親鸞さんらもおしゃっています。
仏教では煩悩具足の私たち(我ら)は悪人の扱いです。
私たち悪人は六道(*)の中を行ったり来たり、その中の時間的長短の片寄り(ご先祖さまのことも含む)はありますが、輪廻転生(**)を繰り返しながら当時期を生きている、人生を送ってきたとされています。
(*)六道: 地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界
(**)輪廻転生: 仏教ではたった一度の人生(現代人の考え方)ということではなく、ご先祖さまを含む生き死にを永遠に繰り返すという考え方です。
現代風に言うならば私たちは諸行無常、栄枯盛衰、浮き沈み、山あり谷ありの中で生きているということでしょう。
このような状況(状態)ですので、私たちが「仏さまになる」・「迷いの世界が無くなる」なんて言うことはあり得ません。現実世界(現世)ではありえないのです。
私たちは六道という世界の中で右往左往して生きていて、それらから逃れることはできない存在だと言うのです。
現実をよく見ると、よく考えると私はその通りと思います。
仏さまになることを「夢見ている」私はどうすればいいのかと思いますが、次のようなことが分かってきました。
私たちが仏さまになれるとしたら、条件があり、それをクリアしたら、現世ではなく、来世でやっとなれるとのことです。来世とは死んで往生した時です。
誤解のないように申しますが、早く死んで仏さまになりたい(阿弥陀さまの待つ極楽浄土に往きたい)と思っても、そういう気持ちにはならないのだが、いかがなものかと思っていた、と親鸞さんのお弟子さんが、尋ねたところ、親鸞さんも同じくそうゆう気持ちであると言いました。なぜか、それは煩悩の仕業であると言っています。だからあせらずに生きていけばよいとの教えであったと。
次にその条件をみてみます。
結論から言うと法然さんも親鸞さんも「弥陀の本願」を信心して、確実に実行することとおっしゃっておりますのでこれに尽きると思います。
具体的に何をやるかですが、阿弥陀さまの名になっている「南無阿弥陀仏」を感謝の気持ちを持ってただ称えるだけです。お助けください、お救いくださいとお願いしなくても、阿弥陀さまはわかっていらっしゃるのです。
きわめて簡単な「行」ですが、阿弥陀さまのお力・はからいをいただき、信じ(本願他力)、すこしずつ積み上げて実行していくことのようです。
法然さんは「弥陀の本願念仏」を「専修念仏」と言っていましたが、一日6万回称えていたと言います。
次の歎異抄第一条の冒頭の言葉が良く表しています。
(原文)「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏申さんと思いたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」
(意訳)「(すべての衆生を救うという)阿弥陀如来の不思議な誓願によって、助けられ、浄土に往く身となり、念仏称えようと思い立つ心の起こるとき、摂め取って捨てられぬ絶対の幸福にいかされるのである」
口に出して称えていると阿弥陀仏の心(*)が私たちの心の底に届いて、私たちがいずれ仏さまになる種になるはたらきをしますとのことです。そうすれば仏さまになる道を歩んでいくことになります。
現世では、仏さまになるのはどんな行(修行)をしても、なれないということです。しかし、行をこなして功徳を積んでいけば大きなメリットとして、現世でも迷いを少しづつ減らしていくことができ、
来世では仏さまになれるかもしれないということです。
お断わりしておきますが、これらはあくまで私の主観的な解釈・思いです。これらは客観的と言えないので、ひとそれぞれの思い・歩みは自由です。
(*)阿弥陀仏の心: 阿弥陀さまは如来の智慧(仏智)で十方衆生(すべての人)の愚かさ、悲惨さ、不条理等を知り尽しており、そんな人たちを救おうと誓願し、本願念仏をお建てになりました。
ここからは少し補足説明します。
◎阿弥陀さま(阿弥陀如来)って何、誰ですが、
私の理解では、阿弥陀さまは史上最上の「如来さま」であり、お釈迦さまをはじめとする、すべての如来さまの師(先生)で、その根本の教えは各如来さまに少なからず引き継がれていると思っております。
お釈迦さまは師とする「阿弥陀仏」が掲げた「弥陀の本願」を生涯かけて説かれました。
「弥陀の本願」はお釈迦さまが作られた七千余経の中の「無量寿経」にお残しになり唯一、真実のお経とされています。
阿弥陀如来が法蔵菩薩だったころ、果てしなく長い時間・修行(五劫思惟)をして「四十八の誓願」(阿弥陀仏の本願)立てられ、その誓願を達成して、阿弥陀如来になられたとのことです。
そして、親鸞さんの著書、教行信証の行巻にある正信偈で次のように明示しています。
(原文)「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」
(釈迦如来、世に興出したまう所以は 唯、弥陀の本願海を説かんがためなり)
(意訳)「釈迦如来がこの世に現れた目的は唯一つ、海のように広くて深い、弥陀の本願を説かれるためであった」
また、蓮如さんは御文章の二帖の第八通・本師本仏の所で次のように述べている。
(原文)「弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なり」
(意訳)「阿弥陀如来とは大宇宙の無数の仏方の師匠である」
◎仏教で言う悪人とは何
現在、世間で言われる「善悪」では法律や道徳の観点が基準になっており、法律を犯したり、道徳的に見ておかしいことをしたものを「悪」や「悪人」としています。
仏教では先にも述べたように「煩悩具足のわれら」を悪人としましたが、煩悩とは「煩」は身を煩わす、「脳」とは心を悩ますという意味です。「具足」とは十分備えているという意味です。
阿弥陀さまから見れば、十方衆生(すべての人)が悪人であることから、これらの悪人を救い、仏さまにすることを述べられていて、それが見て取れる文言が歎異抄第三条の後半部分に示されています。その文言を見てみます。
(原文)「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死を離るることあるべからざるを、憐れみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と、仰せそうらいき」
(意訳)「煩悩にまみれた私たちは、どのような行に励むとも、到底、生死の迷いから離れ られない私たちを不憫に思われて、阿弥陀仏は弥陀の本願を創られた。その本願は私たち悪人を成仏させるのが本意であるので、阿弥陀仏の他力を頼む悪人こそが浄土に生れるための正客であります。必ず仏になる種の持ち主なのです。それゆえに、善人でさえ往生するので、ましてや悪人が往生することは言うまでもありません。と親鸞さんはおっしゃたのです」
最後に私自身はどう見ても善人とは言い難く、悪人との認識のもと、親鸞さんをはじめとして、善知識の方々、よき人からの教えを学びて、できるだけの実践をしていきたいと思います。
来世での仏さまになれますように、慈悲の心を持ちながら功徳を積めればと思います。
(出来もしないことかもしれませんが、カッコ良すぎる締めになり恐縮です)
興味がある方には次のご本をお勧めします。
阿満利麿先生の著書 「歎異抄にであう」 NHK出版
南無阿弥陀仏












