(人生の「苦」や「難」から抜け出す「よりどころ」となった)
2024年11月
1. 概要
その「よき人」は法然さんでした。
比叡山で20年間にも及ぶ修行をしても、悟るどころか、煩悩の海から抜け出せないばかりか一層増していることに気づき、山をおり、六角堂での100日間修行をしていた時に95日目に救世観音(聖徳太子)のお告げをうけ、法然さんのもとに弟子入りした。と (親鸞さんは修行の間、人間の悲惨さ・愚かさを知り、それを自覚していたという)
おおよそ6年間、法然さんの元で教えを受けた。
法然さんの「専修念仏(本願念仏)」の教えなら今までの苦難を乗り越えていけると確信した。
(この間、法然さんからの押し付けは一切無く、自然と受け入れることができた)
このような状況を知った唯円さんは歎異抄・第二章の中ほどに親鸞さんは法然さんを「よき人」と記述しています。
(原文): 「よき人の仰せをかぶりて信ずるほかに、別の子細なきなり」
(訳): 「よき人」(法然さん)の教えを受けて、それを信じるほかに、特別の理由はないのです。
親鸞さんは法然さんに出会われ(ご縁があって)、お念仏の教えを受け、この人なら騙されても、念仏して地獄に堕ちても、後悔しないと言っていました。
親鸞さんは他の行に励んできたが、心のよりどころはできなかった。この「よき人」に出会い、その教えで、今までの自分(人間)の愚かさや世の悲惨さ・不条理等の苦しみから解き放され、真実に目覚めたと言っていると思います。
私たち凡夫の領域からは、はるかに超えていますが、凡夫なりに「よき人」を見つけたいものです。
2.文証・概説
歎異抄第2章の中ほどに「よき人」の文言の部分があり、そこのところを下記します。
(「よき人」の文言の、前と後の文言は次項3に記述します)
(原文): 親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よき人の仰せをかぶりて、信ずるほかに、別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候。
そのゆえは、自余の行をはげみて仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候わばこそ、「すかされたてまつりて」、という後悔も候わめ、いずれの行もおよび難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
(訳): 親鸞におきましては、「ひたすら念仏して阿弥陀仏に助けられてゆくのがよい」という。「よき人」の法然聖人の教えを受けて、それを信じるほかに、特別の理由はないのです。念仏がはたして極楽浄土に生まれる原因になるのか、はたまた地獄に堕ちる行為となるのか、まったく知るところではありません。かりに法然聖人にだまされて、地獄に堕ちたとしても後悔はしません。なぜならば、念仏以外の修行に励んで仏になることができる私であるならば、念仏したから地獄に堕ちたということならば、(法然聖人に)だまされたという後悔もするでしょう。しかし、私は、念仏以外のいかなる修行にも堪えることができない人間なので、とうてい地獄のほかに行き場がないのです。
この文証の中で「いずれの行もおよびがたき身」とおっしゃっている。この意味は、いままで行なってきた行(修行)は「仏になるための手段ではない」ことを知った。
本願念仏が「凡夫を平等に救うことができる唯一の方法」と納得したのであろう。
3.補足説明
歎異抄第2章の中ほどに「よき人」の説明の文言があり、その前半と後半に文言があります。
それぞれの文言について、第二章の全体を知るうえで、その概要を説明します。
ここでは書き出しの最初のいち部分だけ書いています。原文の全体を知りたい方は歎異抄のご本でご覧ください。
<前半の文言>
その原文は「おのおのの十余ケ国の境を越えて、身命を顧みずして訪ね来たらしめたまう御志・・・」の書き出しの文章です。
その意味は背景を含めた説明と文言の概要は次の通りです。
背景: 親鸞さんが関東での普及活動の地から京都に戻られた後のことになりますが、関東の地で親鸞さんの教え「弥陀の本願念仏」に対して異なる教えが広まりつつあった。
文言の意味: 親鸞さんの教えを受けた信者たちが関東の地から京都の親鸞さんに会いに、遠路はるばる命がけで出向き、教えについて問いただした。親鸞さんは次のように答えられた。「私の教えは変わらない。極楽浄土に往生するためのただ一つである」と仰せになった。もし信じられないのであれば、奈良や比叡には立派な高僧がいるのでその方々の話を聞かれるのが良かろう。と
訪れた信者たちは心配していたことが解消し、安心して関東に帰られた。と
<後半の文言>
その原文は「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず・・・」が続きます。
その内容の概要は次の通りです。
文言の意味: 親鸞さんは「弥陀の本願」についてご自身はこの念仏以外の修行にも堪えることができない人間であることを言いながらも、弥陀の本願の正当性を次のように述べています。
まず、釈尊(お釈迦様)が弥陀の本願を説かれた教えにウソがあるはずがない。そして、お釈迦様の説法がまともならば、それをそのまま説かれた善導大師(中国の浄土宗の開祖)の御釈(解釈したもの)に偽りがあるはずがない。そして、善導さんの御釈がまともならば、そのまま教えを引き継いだ、法然さんの仰せにウソ・偽りがあろうはずはないではないか。そして親鸞が法然さんからそのまま受け継いだことは、そらごととは言えないでしょう。
つまり、代々引き継がれたもので、親鸞さんは信心ですと述べています。もし、このお念仏を信じられないなら、お捨てになろうが、皆さまの勝手でございます。と
<よき人として選んだ理由は>
親鸞さんは何をもって法然さんをよき人として選んだのかをみてみます。
親鸞さんは自分の中にある疑問を法然さんにぶつけ、その教えに納得したとのことです。
その疑問はいままでの修行の中で知らされた以下のもののようです。
・いっこうに煩悩がなくならない。
・自分の愚かさ、苦悩や苦難から抜けだせない。
・なぜ、世の中の凡夫は悲惨さや不条理に苦しむのか
・等
これらは凡夫(人間)が抱える大きな矛盾や問題でもあったようです。
ご自身も含み「凡夫を平等に救うこと」ができるのは、阿弥陀仏の「本願念仏」の教えだと思い、その実践で納得できたのであろう。と
<私(個人的な)の、よき人について>(余分なことかもしれませんが)
親鸞さんと次元が違いすぎますが、私事で恐縮ですが、私のよき人について現在の心境を下記します。
人それぞれに、よき人はいると思いますが、私にとって、よき人は「人生のよりどころ」になる方々です。それは、教えであったり、生きざまであったり、おもいやりであったり、です。
それらを思い浮かべながら、現在、自身でやれる範囲で、生活をしています。
凡夫の私にとって、今(後期高齢者になる)まで生きてきて、その経験・知見の積み重ねで、今に至り、見つけた大切な思考(思想・哲学)のひとつと思います。
そのよき人は次の方々です。(今現在の)
一つ: 阿弥陀様と親鸞さん =よき人生観の教えを学ぶ
親鸞さんとのご縁を通じて、阿弥陀様の「本願念仏」の教えを知る。
親鸞さんの「平生業成」、「無碍の一道」の教えを学ぶ。
阿弥陀仏がお創りになった「南無阿弥陀仏」のお念仏は私にとって容易な行(修行)であり、感謝の気持ちを込めて称えると、阿弥陀仏がそれに応えてお働きくださる。
一つ: 母上様 =人生の生きざまを教えてくれた
幾多の記憶が、脳裏に残っていて、おおきな財産になり、今の生活に活かされている。
一つ: 知人のCさん =思いやりの心を教えられた
母を通じた知人ですが、これほどの慈悲心(愛)を持った方は少ないのではと思っている。
(こういうことができる方は、あこがれと思っている)
このほかにも日常的に良き手本となる、多くの方々におります。
その方々の行動(お話・実践)をよく見て、自らをかえりみて、見習えればと思います。
それは一時的なことかも、できれば継続していければと思います。
よき人を見つけることは、意外と身近なところにある(いる)場合もあれば、また、何かの機会にご縁ができ、たまたま、ご自身が求めているものにめぐり合い、研鑽し、納得して見つける場合もあるでしょう。
みなさまのよき人生のためにいかがでしょうか。
合掌
南無阿弥陀仏













