(晴れないと安心・満足の人生はおくれないのか)
1.概要
親鸞聖人は比叡山での20年間におよぶ厳しい修行をしても苦悩(闇)は無くならなかった。煩悩と言っても良いかもしれないが、無くなるどころかますます増すばかりであった。山を降り、真の知識(仏教を教える師:ここでは法然上人)に出会い、その教えにより、無明の闇が晴れ、無尽の法悦を得ることができたと。
無明の闇は「苦悩の根元・死んだらどうなるかわからない後生の暗い心」を言い、
苦悩の根元である疑情(本願を疑う心)がなくなったことにより、無明の闇が晴れたと。
2.文証・概説
親鸞聖人は「教行信証」で次のように述べており、で苦悩の根元は無明の闇とおっしゃっている。その闇は疑情であると。
「生死輪転の家に還来することは 決するに、疑情をもって所止となす」 (正信偈)
(迷いの状態で、一歩も家をでれない(苦しみの枠を出れない)、繰り返される。それは、疑うこころ(本願への疑い)が原因である)
本願を疑う心があるうちは決して無明の闇が晴れないということ。
自分の考えを優先することです。阿弥陀様の考えと自分の考えと比べれば、自分の考えなんて、たかが知れていると思った方がいいということでしょう。自分の考えにとらわれてはいけないということ。
生死:仏教用語で、生きること、死ぬことではなく、迷っていることを意味します。
疑情:疑う心(ここでは阿弥陀様の本願を疑うこと。教えを疑うことになります)
所止:原因
また、親鸞聖人は法然上人との出会いを「高僧和讃」で次のように詠われている。
「真の知識にあうことは 難きが中になおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき」 (高僧和讃)
(真実の仏教を教える方に、会いたくてもなかなか会うのは甚だ難しいことである。苦悩の根元は、疑いの心(無明の闇)である。)
親鸞聖人はその会い難い方(法然上人)に出会えたことで、流転輪廻から脱出できた。阿弥陀仏の教え(本願)に、疑うこころがなくなったことを言うのであろう。
流転輪廻:生死輪転、六道輪廻と同じ意味。
果てしなく惑わせ苦しむ世界。(苦しみの回転とも言おうか、良かったり悪かったりはするものの、終わりなき苦しみのこと)
難思の弘誓は難度海を度する大船、 無碍の光明は、無明の闇を破する慧日なり (教行信証)
(弥陀の誓願は苦しみの波の絶えない人生の海を、明るく楽しくわたす大船である。弥陀の光明は、無明の闇を破り、後生明るくする、智慧の太陽だからである。)
十方衆生(すべての人間)は阿弥陀仏の本願で苦しみの世界から脱出して救われてほしい。ということでしょう。
3.補足説明
親鸞聖人は法然という「真の知識(真実の仏教を教える師のこと)」に会えたことにより、その教えによって無明の闇が晴れ、その後の平安な迷いのない人生を送れたということ。当時としては相当な長寿90歳まで生きられた。
苦しみの根元は「無明の闇」と言われ、それが取り除かれた。
難しい修行をしなくてもよいので、教えにそってやってみる。いつしか、一念で苦しみの世界を卒業できるかもしれない。
一念:無明の闇がなくなった心。「一念」というは信心、二心無きが故に、「一念」という。 (教行信証)
二心:無明の闇のこと。
親鸞聖人は、無明の闇が晴れ、人生の目的の完成した世界を「一念」と表現されている。







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