(お釈迦様の教えである原因と結果のお考え)
1.概要
「因果(因縁果ともいう)について」
あらゆる結果には、それに伴う因と縁がそろって初めて現れるとお釈迦様は教えられている。次の言葉で言い表されている。
「すべての結果は、因縁和合して現れる。例外は一つもない」
時間経過の長短はあるが、因に対する果が必ず出るというものである。
仏教では良いのも悪いのも、運命の一切は「100パーセント自業自得(自因自果)」と教えられている。
「道理について」
いつでもどこでも変わらないことを、仏教では道理という。
(お釈迦様は「いつでもどこでも変わらない事実(真実)を道理」と教えた。と)
「因果の道理」
すべての果は因と縁がそろって生じるという真理である。
原因なしに起きる結果は絶対にない(原因があれば必ず結果が生じる)との真理である。そのかかわる縁があって、必ず結果が生じるということ。この一連の事象を道理ということでしょう。
2.文証・概説
「縁起」という言葉があるが「因縁生起」の略で、「どんな結果も、因と縁が結びついて生まれる」という意味である。
たとえば、コメを作るときには、モミダネ(因)があり、日光、土、水、肥料等(縁)が結びついて、初めて収穫(果)となる。
お釈迦様は「私たちの運命も同様に、各人の行為(こうい)(因)と、とさまざまな環境(縁)が和合して、生まれる」と教えられている。
縁起が良いとか、悪いとか、縁起でもない、というような話を時々聞くときがあるが、間違った使い方をしている。
十方衆生(すべての人間)の「因縁和合して現れる」について
人の「因」について
業因と言い、身業(身体の行い)、口業(しゃべること)、意業(思うこと)、の三つの業(身口意の三業)によって因が造られる。
これらの目に見えない業縁(業力とも言う)は私たちの中に今生だけでなく、ご先祖様の遠い過去から無数に造られ永遠に残っていると説かれている。
覚えているものだけでなく、覚えていない行為も含め、膨大な数の業因があり、縁がくれば、どんな結果も起きる可能性があると。
親鸞聖人は次のようにおっしゃった、と。歎異抄第13章に記されている。
「・・さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし・・」
(縁さえくれば、どんな恐ろしいことでもするであろう)
当文証では、因(自分がまいたタネ)で果(結果)が変わらないということではなく、縁を変えれば果も変わることもある。でも、一度まいたタネは変えようがないので、果は変わることがないことも、思ったほど変わらないこともある。
自分のまいたタネの大小や縁の度合い、果の現れる長短もあり、業縁の内容によってちがうのだろう。
因果の道理は「自因自果」・「善因善果」・「悪因悪果」であり、「他因自果」はありえないという教えである。
「自因自果」:自分でまいたタネは必ず、自分にあらわれる。
「善因善果」:善いタネをまけば、善い結果があらわれる。
「悪因悪果」:悪いタネをまけば、悪い結果があらわれる。
「他因自果」:他人のまいたタネの結果が、自分にあらわれることはない。
(現代ではネットがらみで誹謗中傷も多く、影響がないともいえないようだが、
そのような言動・行為は、悪因悪果になり、自分に返ってくる。決してやってはならない行為と知らなければならない。お釈迦様の教えに反する。
このようなことの起こった当事者は教えを信じ、自分の果にはならないと思い、無視するか、距離をおくか、しかるべきところに相談することになるのだろう。)
仏教は「廃悪修善」を教えている。
日々の言動・行為を良くしなさい。そうすれば、幸福になりますよ。絶対の幸福を得るための一里塚ですよ、とのことです。
これは弥陀の本願「十九願」を指し示していると思う。
「廃悪」:不幸(悪果)がイヤなら悪い行いを慎みなさい。
「修善」:幸せ(善果)になりたければ善をしなさい。
3.補足説明
私たちは、いろんな結果を得る。そんな中でどうしても、より良い結果が欲しかったり、悪かった結果を変えたいのであれば、因をかえ、縁を選び直すことでしょう。
良し悪しの結果が出て、どうしても原因が知りたい場合(絶対知りたい)なら、納得するまで、とことん検証・追及することが必要でしょう。因果の道理の追及とでもいうのでしょうか。
十方衆生の凡夫(すべての人間)の意識は条件等(縁とも言える)により、ころころ変わることも知っておかなくてはならないと思う。そこで、ものごとの日々の言動・行為にはかならず、「因果の道理がある」ことを心得ておく必要があろう。
余談になりますが…
家庭菜園をやっていて、ある野菜を植える時に、品種の選択で迷うことが時々ある。
店頭には同じ品種でも産地だったり、ブランドものだったりして、価格がピンキリでどれを選ぶか悩むときがある。最近、やっと、いいものは良いものになる。土壌などの環境を整えることでいいものができると、思うようになった。ものにもよるが、多少価格が高いものでも「いいものを」と思うようになってきている。
因果の道理の「善因善果」のひとつではと思っている。













