(親鸞聖人が生涯で3度行った、仏法上の大論争)
1.概要
親鸞聖人が法然上人の門下に在籍していた時に、380人余の法友(仏法の友)と三つの論争をした。それを三大淨論という。
そして、最終判断を法然上人に下してもらった。
親鸞聖人は法然上人の教えである「弥陀の本願」の根本的解釈(真意)について、聖人にとって今後の教えの流布活動に避けられないことであった。
それが以下の三つである。
1.体失・不体失往生の淨論
(阿弥陀仏の本願の救いは生きている時か、死んでからか、両方かの議論)
答えは両方。
2.信心同異の淨論
(法然上人の信心と私たち法友の信心は同じか違うかの議論)
答えは同じ。
3.信行両座の淨論
(阿弥陀仏の救いは「信不退」(信心ひとつ)か「行不退」(行=念仏)かの議論)
答えは信不退。
淨論:弥陀の本願の解釈で「どちらが正しい仏法か」を争う論争。
2.文証・概説
親鸞聖人は「弥陀の本願」の根本的な意味について、法友との考え方が何んか違うように感じていて、どうしても法然上人に教えてほしかった。
・一番目の体失・不体失往生の淨論について
善信房(親鸞のこと)は阿弥陀仏の本願は生きている時に救ってくださるお約束であると主張した。
(これを人生の目的とも言い、生きている時にも弥陀の救いに値うこと)
一方、法友である高弟の善慧房証空は生きている間は弥陀に救われることはない。死んだら、助けてくれるお約束であると主張した。
源空(法然上人のこと)は議論の詳細を聞き次のようにおっしゃられたと。
「死ぬまで救いがないというのは、弥陀の本願ではない。善信房(親鸞)の言うとおり、生きている時(平生)に大満足の身に救い摂るというのが阿弥陀仏の本願である。経典のご文を見れば明らかであろう。」
この「体失・不体失往生の淨論」は次のことに通じる。
親鸞聖人は阿弥陀仏の本願は生きている時、絶対(相対ではない)の幸福に救うという。
誓願であるから、「現生不退」ともいう。
また、「平生業成」の生きている現在、人生で果たさなければならない大切な目的を完成させなさい。
「現生不退」:現生=生きている時、不退(正定聚不退転の略)=絶対の幸福のこと
「平生業成」:平生=生きている現在、業=人生の目的、成=完成する。達成する
善信房:親鸞が法然門下に在籍していた時に呼ばれていた名前。
源空:法然上人の別名。
・二番目の信心同異の淨論について
お師匠さんの法然上人と親鸞の信心が同じかどうかの論争。
親鸞聖人は「信心は同じ」であると堂々と主張した。
一方、高弟である聖信房、勢観房、念仏房らは尊敬してやまない法然上人と「信心は同じでない」「同じはずがない」と猛反発した。
法然上人は「自力の信心」と「他力の信心」を区別して、次のように述べられた。
「自力の信心」について
「この法然と信心が異なると言っているのは、お前たちの信心が「自力の信心」であるからだ。自力の信心は、知恵や学問、経験や才能で作り上げたものであり、その知恵や学問、経験や才能は一人一人異なるから、自力の信心は一人一人違ってくるのだ」と。
また、自力の心は弥陀の本願を疑う心でもあると。
「他力の信心」について法然上人は次のように述べている。
(覚如上人(親鸞聖人のひ孫)の御伝鈔に記されている)
「他力の信心は、善悪の凡夫ともに仏の方(阿弥陀仏)よりたまわる信心なれば、源空(法然)が信心も善信房(親鸞)の信心も、更にかわるべからず。ただ一つなり」
(他力の信心は阿弥陀如来から、ともに賜る信心だから、誰が受け取っても(回向)皆、同じ信心になるのである。阿弥陀如来から賜った私の信心も親鸞の賜った信心も少しの違いもない。全く同じになるのだよ、と。補足すると知恵、才能、経験などいっさい関係なく、男も女も、老いも若きも、賢い人も愚かな人も、すべての人が平等に阿弥陀仏からいただく信心だから万人が同一になれる)と。
さらに、
「信心の、かわりおうておわしまさん人々は、我が参らん浄土へは、よも参りたまわじ。よくよく心得らるべき事なり。」
(法然と違う信心の方々は私の往くご極楽浄土へはいけませんよ。心しておきなさい。)
自力信心はみんな違うが、弥陀から賜る他力信心はみんな同じです。ということ。
歎異抄「第一章」の一部に次のように記されている。
「・・弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし・・」
阿弥陀仏の本願に疑心がまったくなくなれば、救い摂られ、同一の信心になることができるということ、でしょう。
・三番目の信行両座の淨論について
親鸞聖人は法然上人の許可を得て、二つの座敷、「信の座」と「行の座」を準備した。
「信の座」は信不退(弥陀の救いは信=信心一つで)の意味
「行の座」は行不退(弥陀の救いは行=念仏で)の意味
(不退=弥陀の救いのこと)
法友たちに弥陀の救いはどちらか、を選択してもらった。
結果は次の通り。
「信の座」に入った人は4名+法然上人
「行の座」に入った人は380名余
「行の座」に入られた方は法然上人の書かれた「選択本願念仏集」の「念仏をもって本と為す」と書かれていて、いつも念仏が大事と聞いていたことにあろう。
法然上人は「信心は心の問題」だから「弥陀の救いは信心一つ」との思いで選ばれたようだ。弥陀の救いはお念仏ではない。
親鸞聖人はお念仏には3通りあると。それは称える心の違いである。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称える時の心の違い。
一つ目:諸善と念仏の両方の功徳を思って称える念仏。
(称えていれば、必ず良い結果が来ると思っている)
二つ目:どんなものよりはるかに優れた功徳があると思って称える念仏。
(念仏の中に一切の功徳がおさまっているので必ず助かると思っている)
三つ目:阿弥陀仏に絶対の幸福に救われたことへのご恩を思い称える念仏。
(感謝一杯のお礼の気持ち)
一と二は助けていただこうと思って称える念仏で「自力の念仏」という。
三は救われた後うれしさで称えずにはおれない念仏で「他力の念仏」という。
3.補足説明
これらの論争でことごとく親鸞聖人の「弥陀の本願」の根本的な解釈が正しいことが、法然上人に認められたことになった。
これらの淨論を通じて、多くの法友には、師匠の前で恥をかかされたと、怒りや恨みを抱き、親鸞聖人から誤りを教えてもらった感謝より、敗北感や憂き目にあったことの方が強く、一層敬遠するようになり、親鸞聖人は孤立を深めることになった。
法友からは「背師自立(師匠に背き自説を立てる)の高慢坊主」といわれたり、
さらに、親鸞聖人は肉食妻帯を断行して仏教界の反感を買っていた。
こういったことの批判・中傷を恐れずに決行する勇気は称賛に値する。
親鸞聖人の行動は評価されるべきだし、偉大さを示すものと思う。
他力の信心を獲得して、人生の目的を完成すれば十方衆生(すべての人)が同じよろこびの世界に共生できることを言うのであろう。
他力ということは阿弥陀如来の本願力のことである。
それを得るため(回向してもらう)には本願を疑う心が完全に無くなり、自力を捨てることになる。
そして、他力の信心を獲得して信心の行者になり、お礼としてのお念仏を称えたいと思う。
私たち親鸞聖人の教えを学ぶものはこれを目指して日常の生活をすることでしょう。
合掌












