世の中には目に見えないものがありますが、それらは見えなくてもこの世にしっかりと存在感を示しています。
たとえば、重力、磁力、電波等です。それぞれ、目には見えませんが、確固とした機能を有し、存在している証拠もあります。
それら、目に見えないが強烈な存在感を有するものたちに匹敵するのが、阿弥陀様の大悲(お慈悲のこと)のこころです。信じない方もいらっしゃると思いますが、私は阿弥陀様のそれを受信することができると信じています。
私たちは自分の気持ちをわかってくれないと、愚痴ったり、なんで自分だけがこんな目にあわなくてはならないのか、暗い気持ちになったり、こんなはずではなかったと嘆き、悲しんだりします。そうして、思うようにならないことを嘆き悔やみながら生きているのが私たちの現実の姿(実相)なんだと思います。
阿弥陀様が悟られたお念仏は、思い立った時に「南無阿弥陀仏」と称なえると、悲しい気持ちの時や、どのような状況にあっても、どのような心持ちでも決して誰も見捨てることはしません。
そのひと声ひと声の中に、いつでも、どこでも、何度でも、どんなことでも摂め取ってくださります。守ってくださっているのです。これが阿弥陀様のお慈悲です。これらの常なる働きを、念仏者に届けてくださっているのです。
次の「金子みすゞ」さんの詩は、それぞれの立場の心情をあらわしていると思います。
「さびしいとき」(金子みすゞさんの詩)
「私がさびしいときに、よその人は知らないの」
「私がさびしいときに、お友だちは笑うの」
「私がさびしいときに、お母さんはやさしいの」
「私がさびしいときに、仏さまはさびしいの」
人間の愛と阿弥陀様の慈悲の違いを表しているのかなー。
「よその人は知らないの」「お友だちは笑うの」という言葉が示しているのは、
その方々に自分の本当の気持ちを理解してもらうことは容易ではないし、わかってもらえることは難しい、ということでしょうかね。
「お母さんはやさしいの」は親の愛でしょう。
自分に一番近いお母さんはやさしくしてくれます。励ますことも厳しく突き放すことも愛情ですがが、そのさびしさは、むしろ自分の胸にとどまり、一時の慰めでしかありません。人の愛の限界のようです。人間の愛を衆生縁といい、小悲といっています。
小悲の場合は、人間世界の愛、悲しむことのできる愛です。それは親の愛のことでしょう。子供に対する親の愛、それ以外には小悲という言葉で表されているような愛はない。夫婦の愛とか、兄弟の愛とかいろいろいわれるが、それは背いたときには憎しみに変わるような愛のようです。
「仏さまはさびしいの」は仏の「大悲」でしょう。
私さびしいと思うとき、まったく同じ気持ちでさびしいなーと 阿弥陀さまは想ってくださる。
いつでもどこでも私とご一緒してくださる。
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、とお念仏するところに、大丈夫、ひとりじゃーないよ、
そのくるしさ、つらさをわかっているぞ、ほんとにしんどいなーと言ってくださる。
いつでもどこでも感じられる。
安心できる居場所が、いつでもどこでも私に与えられていることはありがたいことです。
阿弥陀様はすべての人にかたよらない慈悲のこころを、いつでもどこでもそそがれる。
自分にも常に包みこんでくださる。阿弥陀様に包まれていることを感じる時は二つあります。
1.ご法話をきいているとき。
2.お念仏をとなえているとき。
ほかには、阿弥陀様がありがたいと、また、うれしいと思っている方とお話している時に、
阿弥陀様がいらっしゃる、包み込んでくださっていると感じます。
⑤ 大事なことは仏座で
⑥ 睡眠は阿弥陀様のもとでぐっすり眠る。
⑦ 行動が伴う、言葉にするように。(口だけではないこと)
⑧ 自分の体すら自分のものではない、ほかの人を独り占めするなどもってのほか。(執着は良くない)
⑨ 過去のことにとらわれていることは自分を苦しめる。
時は、時代は流れている。過去の特に嫌なことを引きずることは過去の執着となり、自分を苦しめる。
今の時を前向きにとらえ、割り切って生きていく。そのように、心構えを変え決意すること。
⑩ 自分の思っていることと現実の差異(ずれ)が不安を生む。
⑪ 自分の都合の良いことは好意的に、悪いものは否定的になり、実像を歪める。
⑫ こころは見えない。それはことばとおこないに現れる。
いっきに①~⑫まで挙げてみました。
引き続き、印象的な気づきを得る機会をいただきましたら、書いていきたいと思います。












