①親鸞聖人は平安時代末期にお生まれになり、鎌倉時代を生きる。(1173-1262)(90歳で入滅)
②親鸞聖人が生きられた時代背景
<争い>
・源平の争い
・南都(興福寺)北嶺(延暦寺)の寺院は僧兵を組織し勢力・権威拡大し、地方に寺院を配下にしていく。
<飢饉>
・大規模飢饉(養和の飢饉:1181年)、疫病流行で京都だけで4万人以上亡くなった。
その50年後、寛喜の飢饉(1230年から数年続いた全国規模の大飢饉起こる。
<末法思想の時代>
・お釈迦様が予言した末法思想(1052年)が始ったこともあり、世の中混沌として、庶民の不安を助長してきた。そんな中、民衆は救いを求めた。多くの鎌倉新仏教(鎌倉六宗)が誕生した。
<武家の台頭>
・貴族の間では大寺院に対抗できなくなり、武士を頼りにするようになる。武士が台頭してくる。
③親鸞聖人の修行
<比叡山での修行>
9歳で出家し、仏門に入り、下山するまで20年間修業する。
この間19歳の時に聖徳太子の御廟(磯長)で「磯長の夢告」を受けた。あと10年の命と。
その後29歳で下山し、聖徳太子が建立した京都の六角堂で100日祈願修行をし、95日目に「救世観音の夢告」を受ける。あと10年の意味がわかる。
<法然上人に師事>
法然に1201-1207年まで6年間、仕える。その間「選択集」の書写許される。
1207年の「承元の法難」により法然と弟子7人は流罪となる。4人は死罪。僧籍剥奪される。
④越後での生活
古代律令国家が制定した官僧の僧籍剥奪されたが、非僧非俗と言い、俗人になったわけではないし、仏法の一求道者に変わりはないことを表現した。布教活動は禁じられていて、草庵で思索していたであろう。生活では既成の仏教戒律を破り、肉食し、子ももうけた。1211年に流罪が解かれたが法然が亡くなられ、悲しまれ、京に帰ることなく常陸の国に出向くことにした。
⑤常陸の国の生活
越後を妻子ともなって関東に向かう。途中、信濃の阿弥陀信仰で知られる善光寺に立ち寄り、そのあと上野国佐貫で絶対他力を再確認し、つぎの、常陸国小島に3年ほど過ごし、東国各地を巡ってきたが、45歳で稲田に移り落ち着いてからは主に集まってくる民衆に説法をした。当地には厄災を呪術や祈祷する山伏がいて、親鸞を邪魔な存在として排除しようとしたがその姿に感服しすぐに弟子になった。関東の弟子は70人ほどいたとされる。稲田草庵で根本聖典となる「教行信証」を書き上げたが、その後手を加えられ未完の書ともいわれる。
⑥京に帰っての生活
執筆活動を精力的に行う。「教行信証」の完成に向け補訂を重ねるかたわら、70代で「浄土和讃」「高僧和讃」「唯信鈔文意」など、80代で「正像末和讃」など著作する。教えを曲解する門弟が現れ、事態の収拾に努めるも長男の善鸞にも裏切られ、絶縁することになる。
最期は末娘の覚信尼に看取られる。
| 年月 (歳) | 親鸞聖人のあゆみ | 関連メモ |
| 1173 (1) | 京都日野にご生誕(5月21日) 4歳で父君と別れ、8歳で母君と別れ |
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| 1175 (3) | 法然・浄土宗開宗・専修念仏を称える | |
| 1181 (9) | 青蓮院で得度 出家し比叡山の天台僧として仏門に入る。 |
平清盛没す(1118-1181)(64歳) |
| 1185 (13) | 鎌倉幕府成立 | |
| 1191 (19) | 聖徳太子の御廟(磯長)で夢告を受ける。 | |
| 1192 (20) | 源頼朝、征夷大将軍となる | |
| 1198 (26) | 法然「選択本願念仏集」著述する | |
| 1201 (29) | 比叡山を出て六角堂に参籠。法友の「聖覚法印」に導かれて法然に出合い、弟子になる。阿弥陀仏の本願によって人生の目的達成する。 | |
| 1203 (31) | それまでの仏教の形式を破り、結婚(妻帯)、肉食を決行する。仏教界で大問題になる。 | |
| 1204 (32) | 法然の「七箇条制誡」に弟子の僧綽空として署名する。弟子たちの自戒をうながした。 | 比叡山が法然の教えである専修念仏の停止を訴える。その結果左記の行動をとる。 |
| 1205 (33) | 法然より親鸞の法名を授かる。 | |
| 1207 (35) | 承元の法難、越後の国(現在の上越)へ流罪となる。法然は讃岐の国へ。 | 後鳥羽上皇により念仏禁止令が発令される。 |
| 1207-1211 (4年間) |
五智国分寺(竹之内草庵)で流人生活する。 愚禿釋親鸞と名乗る。恵信尼と再婚 |
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| 1211 (39) | 4年の流罪で赦免される。 1211-1214までの3年、越後に留まる。 |
法然は京に戻る。 |
| 1212 (40) | (赦免後、法然に会えずお別れする。) | 法然死去(1133-1212)(80歳) |
| 1214 (42) | 越後から常陸に移住する。稲田に落ち着く。(45歳) 1214-1235の約20年、京に帰るまで布教に努める。 |
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| 1224 (52) | 教行信証を著作し、大綱ができる。 浄土真宗開宗する。 覚信尼生まれる。(末娘) |
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| 1234 (62) | 鎌倉幕府により専修念仏禁止される。 | |
| 1235 (63) | 常陸の国を離れ、京に帰る。覚信尼伴う。 | |
| 1248 (76) | 「浄土和讃」「高僧和讃」著す。 | |
| 1256 (84) | 長男の善鸞を義絶する。 | |
| 1257 (85) | 「正像末和讃」を著す。 | |
| 1262 (90) | 京都の弟の尋有の善法院で入滅。 弟子二人とわが子二人に看取られた。 火葬され、東山の鳥辺野に葬られた。 |












