(人間の心は極悪人。その救いは、阿弥陀仏の「本願」であると。)
1.概要
人間の行動は体(しぐさや動き)や口(ことば)で表現される。その元は心にある。
悪いことを心で思うので十方衆生(すべての人間)は救いようのない極悪人であるといわれている。
仏教では人を実際に殺めたりすることよりも、思う罪(こころで殺め思う罪)が一番重いとされている。そんな極悪人を弥陀の本願が救ってくださると親鸞聖人はおっしゃっている。
実際に人を殺めたものは極刑を否定してないが、そんな人でも弥陀の一念の救いは残っていると。
お釈迦様も煩悩について「集」の真理のところで述べられている。
もっともっと欲しいと貪る欲の心、思うようにならない怒りの心、恨んだりする愚かな心等を説かれている。
煩悩でも必ずしも悪いものばかりではない。阿弥陀様はその煩悩を寛大に見ておられる側面もある。それは阿弥陀様に救われた人は往生を急がなくてよいと。それも煩悩とおっしゃっている。
親鸞聖人も同じ認識をしており、そんな方が、実際に往生した時には、阿弥陀様は快く弥陀の浄土に迎えてくれると。
2.文証・概説
お釈迦様(悟りを開いた釈尊)が初めて五比丘(5人の僧)に教えを説かれた(初転法輪という)の中に煩悩について述べている。
それは四つ真理の中の一つで「集」です。
お釈迦様は「人生は苦なり」の真理から始まり、その苦しみを脱し、さとりを開くことの道筋を示されている。
「苦・集・滅・道」の四つの真理(四諦と呼ばれる)を説かれた。
(四諦:四つの真理=苦諦・集諦・滅諦・道諦)
「苦・集・滅・道」の真実について全体でみていく。
一番目:「苦」 四苦八苦と言われているように、誰もが避けられない、人生は「苦」で、思いどおりにはいかないことを教えている。
四苦:生老病死(生苦・老苦・病苦・死苦)
八苦:四苦 + 愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦
愛別離苦:愛する人と別れることは避けられない
怨憎会苦:恨んだり憎んだりした人と出合わなければならない
求不得苦:ほしいものを求めても思い通りに手に入るわけではない
五蘊盛苦:五蘊(色・受・想・行・識)で構成される心身は思いどおりにはならない
(身体、思考等、思うようにならないこと)
二番目:「集」 苦しみを生む元(原因)は煩悩にあると説いている。
前号(No.30)でも述べているが、我々を煩わせ悩ませ、罪を造らせる心を「煩悩」と言われている。
特に三つを「三毒」といい、それに三つ加えて「六大煩悩」と言っている。
「三毒」:貪欲・瞋恚・愚痴の三つをいう。
「貪欲」:欲の心で、際限なく貪る欲で、満足を知らない。金、物、名誉等、もっともっとと欲しがる心。
「瞋恚」:欲が妨げられたりすると噴き出してくる怒りや憎しみ。自分への害であいつのせい、こいつのせいとおこる心。
「愚痴」:自分のことはさて置き、相手に対して、ねたんだり、恨んだり、さげすんだり本当のことを知らない愚かな心。
「六大煩悩」の後の三つは:慢・見・疑
「慢」:驕りたかぶること。
「見」:誤った見解を持つこと。
「疑」:よく考えずにお釈迦様の教えを疑うこと。
三番目:「滅」 煩悩が消えたかのような、煩悩に煩わされることがない世界。
安らかな世界(涅槃)で静かな心になること(寂静)。このような世界に入ることを涅槃寂静と呼ばれ、滅の真理となる。
四番目:「道」 滅(涅槃寂静)に至る修行のことで、どうすれば、迷いの苦しみ
(生死・煩悩)から解放されるかの方法を説いている。宗派によってその方法(経典)は異なっている。
私なりに「弥陀の本願」と「苦・集・滅・道」を比較解釈してみると、
「集」:心の乱れを引き起こす欲望などの煩悩が、
「苦」:思いどおりにならない人生の苦を生み、
「道」:苦しみを無くすことを行い(本願信心)、
「滅」:煩悩が気にならない境地(絶対の幸福)になる。
親鸞さんの教えの修行(実践)は難行(聖道仏教)ではなく、易行(浄土仏教)であり、弥陀の誓願(本願)が十方衆生(私たち)極悪人が救われる唯一の道と説かれている。
次に煩悩の良い一面について「歎異抄第九章」で述べている。全文を記す。
「念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと、また急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、いかにと候べきことにて候やらん」と申しいれて候いしかば、
「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどに喜ぶべきことを喜ばぬにて、いよいよ往生は一定と思いたまうべきなり。喜ぶべき心を抑えて喜ばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねて知ろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときの我らがためなりけりと知られて、いよいよ頼もしく覚ゆるなり。
また浄土へ急ぎ参りたき心のなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやら んと心細く覚ゆることも、煩悩の所為なり。
久遠劫より、今まで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生まれざる安養の浄土は恋しからず候こと、まことによくよく煩悩の興盛に候にこそ。名残惜しく思えども、娑婆の縁つきて力なくして終わるときに、かの土へは参るべきなり。急ぎ参りたき心なき者を、ことに憐れみたまうなり。
これにつけてこそ、いよいよ大悲大願は頼もしく、往生は決定と存じ候え。
踊躍歓喜の心もあり、急ぎ浄土へも参りたく候わんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候いなまし」と云々。
意訳:全文を意訳すると長くなるので、その要約を記す。
弥陀の本願に救われ、往生間違いなしとなった、親鸞聖人も唯円も念仏称えても普通は大いに喜んであたりまえと思うのですが、その喜びがわきません。
これはなんですかと疑問をいだかれていた。
現世を棄てがたく、浄土へ急いで往きたくない心も、浄土が恋しく思えないのも、病気にかかって「死ぬのではなかろうか」と心細く思うのも煩悩のしわざであると。
そして、現世がなごり惜しくても、その縁がつき、生きる力を失えば、弥陀の浄土に参ることになる。阿弥陀様はそんな浄土へ急ぐ心のないものをいとしみ、憐れんでくださる。
3.補足説明
私たちは心(頭)でいろいろなことを思う。あることないことを思っている。良きことを思うこともあるが、良からぬことを思うことが多い。どちらも個人の中に留まり、実現することは少ないと思うが、たまに表面(口や体)に出てきたりすると、そこからたちまち広がることがある。良いことであればよいが、悪いことであると、大変なことに発展することがある。
人間の持つ、六大煩悩ということを理解しながら、自己のこと、そして利他のことも考えながら生活をおくりたいものです。
凡夫の人生はお釈迦様がおっしゃっているように大半が苦の世界であろう。
そんな中で、できるだけ安心して生活し、ちょっとした楽しみを見つけながらおくれれば良いと思う。
煩悩を無くそうと格闘してもできないことがはっきりした。いっそ煩悩を意識しないで生活ができるようになればよい。それは弥陀の本願信心を獲得することにあると思う。












