1.概要
イダイケが「因」を起こし(自分の都合で悪業を犯した)、その「果」を受ける(強烈な仕打ちを受ける)。因果の道理(自業自得)の教え。その状態のイダイケの欲と怒りと愚痴の塊をお釈迦様は教導する(定善十三観)も、できるはずもなく、自惚れのイダイケに言わせるだけ言わせ、「無言の説法」(仏の慈悲)にし、自己の姿を知らしめた。時節到来を察知したお釈迦様(釈尊)は「苦悩を除く法を説く」と告げられ、釈尊は姿を消し、金色輝く阿弥陀仏があらわれる。阿弥陀仏の仏身を拝見したと同時に、イダイケの無明の闇が晴れて、歓喜に満ち、弥陀の救済に感泣した。イダイケは弥陀の誓願不思議に救い摂られた。恨みと呪いの暗黒人生が、懺悔と感謝の光明の人生に新生した。と
2.文証・概説
このことは「観無量寿経(浄土三部経の一つ)」に詳細に出てくる。
親鸞聖人は教行信証の中で次のように述べている。
「偉提と等しく三忍を獲る」
どんな極悪人でも、イダイケと同じように人生の目的成就を体得できる。と
また、「難思の弘誓は、難度海を度する大船」
弥陀の誓願は無明の闇をやぶり、苦しみの波の絶えない人生の海を、明るく楽しく渡す船である。この大船に乗ることこそが人生の目的である。と
歎異抄では次のようにも述べている。
「さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし」
親鸞も縁さえくれば、どんな恐ろしいことでもする。と告白している。
3.補足説明
約2600年前、釈尊が在世の時の出来事を、観無量寿経に説かれた教えである。
すべての人間の実相を表し、その解決方法を教えているように思う。
縁さえあれば、どんな恐ろしいことでもするし、因果(やったこと、起こったこと)について、やったことを忘れ、起こった結果に驚いたりする。人間の愚かさ、身勝手さをあらわしている。釈尊は、そこを見抜き、阿弥陀仏の誓願を説き、最善の教導をし、救い摂った。そして、苦悩の世界から光明の世界へと帰命させた。と
阿弥陀様はすべての衆生は悪人であることを見抜かれ、誓願をたて、永劫の修行を経て、如来となられた。そして、すべての衆生を救う教えを確立した。と













