親鸞聖人・高僧他

30. 人間の煩悩は生涯、無くならない。①

(阿弥陀仏は「人間は煩悩のかたまり」である。でも救うと)

1.概要

十方じっぽう衆生しゅじょう(万人)の煩悩は無くならないとおっしゃっている。

阿弥陀仏は「人間は煩悩のかたまり」であることを見抜かれ、そんな人間をそのままで絶対の幸福に救うと誓願(本願)をたてられた。
また、お釈迦様は阿弥陀仏をすべての諸仏(十法諸仏)の師(先生)と仰いで、生涯、その弥陀の本願の教えを説かれた。

親鸞聖人は比叡山で20年におよぶ難行苦行にもかかわらず、煩悩は一切なくならず増すばかりだったと言っている。「深信じんしん」でもおっしゃっているように、ご自身を救われようのない極悪人であるとした。そして、「ほう深信じんしん」に至り、そんな極悪人である自分を「弥陀の本願」で救っていただき、本願不思議とおっしゃっている。

(機の深信、法の深信についてはNo.20、21、22を参照ください)

煩悩の渦巻く中で救われる方法は、弥陀の本願を信心し、無くならない煩悩を打ち消すものを手に入れ、救われる、とのこと。

要約して言うなら、
親鸞聖人がおっしゃっている、「平生業成へいぜいごうじょう」と「ねん仏者ぶつしゃ無碍むげ一道いちどう」ということではなかろうか。

阿弥陀仏の大慈悲だいじひしんは目には見えないが、はからう力、回向えこうの力であると思う。

平生業成:生きている時に死後の心のうやもやを無くし、完成させること。

念仏者は無碍の一道:弥陀に救われた人はどんなことにも、さわり(煩悩・罪悪)がさわり(妨(さまた)げ)にならなくなり、最後はかならず弥陀の浄土(極楽浄土)いけることがはっきりすること。

 

2.文証・概説

親鸞聖人は「一念いちねん多念たねん証文しょうもん」の中でつぎのように述べている。

凡夫ぼんぶというは、無明むみょう煩悩ぼんのうわれらがにみちみちて、よくもおおく、いかはらだち、そねみねたむこころおおくひまなくして、臨終りんじゅう一念いちねんにいたるまで、とどまらずえずえず」

(意訳)
人間というものは、欲や怒り、腹立つ心、ねたみそねみなどの、かたまりである。これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしない、たちきれるものでは絶対にない。

煩悩:仏教では我々をわずらわせ悩ませ、罪を造らせる心をいう。

 

さらに、煩悩についての書かれたもので、
歎異抄で一番重要とされる第一章の全文を上げてみる。

弥陀みだ誓願せいがん不思議ふしぎたすけられまいらせて往生おうじょうをばぐるなり」としんじて「念仏ねんぶつもうさん」とおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨せっしゅふしゃ利益りやくにあずけしめたまうなり。
弥陀みだ本願ほんがんには老少ろうしょう善悪ぜんあくひとをえらばず、ただ信心しんじんようとすとるべし。
そのゆえは、罪悪ざいあく深重じんじゅう煩悩熾ぼんのうしじょう衆生しゅじょうたすけんがためのがんにてまします。
しかれば、本願ほんがんしんぜんには、ぜんようにあらず、念仏ねんぶつにまさるべきぜんなきがゆえに、あくをもおそるべからず、弥陀みだ本願ほんがんをさまたぐるほどのあくなきがゆえに、と云々うんぬん

(意訳:「そのゆえは、罪悪深重・・・」以降について)

そのゆえは(悪人が本願の信心一つで救われるのは)、最も罪の重い極悪人、煩悩の激しい者たちを助け・救うためのもの(本願)である。

煩悩熾盛の衆生:煩悩が燃え盛っている人々(十方衆生=全人類)

また、歎異抄第三章でも煩悩のことが述べられている。(全文を記す)

善人ぜんにんなおもって往生おうじょうぐ、いわんや悪人あくにんをや。しかるをひとつねにいわく、
悪人あくにんなおおうじょうす、いかにいわんや善人ぜんにんをや」このじょう一旦いったんそのいわれあるにたれども、本願ほんがん他力たりき意趣いしゅそむけり。
そのゆえは、自力じりき作善さぜんひとは、ひとえに他力たりきをたのむこころけたるあいだ弥陀みだ本願ほんがんにあらず。しかれども、自力じりきこころをひるがえして、他力たりきをたのみたてまつれば、真実報土しんじつほうど往生おうじょうぐるなり。
煩悩ぼんのう具足ぐそくわれらはいずれのぎょうにても生死しょうじはなるることあるべからざるをあわれみたまいてがんをおこしたまう本意ほんい悪人あくにん成仏じょうぶつのためなれば、他力たりきをたのみたてまつる悪人あくにん、もっとも往生おうじょう正因しょういんなり。
よって善人ぜんにんだにこそ往生おうじょうすれ、まして悪人あくにんは、とおおそうらいき。

(意訳1:「そのゆえは、自力作善の・・・」以降について)

自分の善行ぜんぎょう(自力)で極楽浄土に行ける(生死せいじの一大事を解決できる)と自惚うぬぼれている善人は弥陀の本願を疑っているから、全幅の弥陀におまかせする心がない。ゆえに弥陀の本願の対象とはならない。

しかし、そんな人でも自力の心(これはこれで必要)を、他力(弥陀の本願に疑いが全く無くなること)におまかせする(転入する)と弥陀の浄土にいけるのである。

(意訳2:「煩悩具足の我ら・・・」以降について)

煩悩にまみれた、我々には、どんなぎょう(善い行い)に励んでも、生死しょうじの迷い(生まれたり死んだり、生涯、苦しみ迷いが巡ってくる)から、逃れられないことをあわれんで、弥陀の本願を建立された。悪人を成仏させるのが、弥陀の本意だから、助かる見込みのないものを、他力(阿弥陀仏の力)にまかせる悪人こそ、弥陀の浄土に往生できる。その方々が、正因(目当ての人)である。

煩悩具足の我ら(凡夫):煩悩で構成されている人々

全体の文意については「悪人を救うことが、阿弥陀仏の本願である」(悪人正機)ことを述べたものであるが、善人の解釈もしている。

この歎異抄第三章は読み手によって「善人」「悪人」の解釈の違いが生じて、悪いことをすればするほど、浄土にいけると思うものが出てきた。しかし、悪いことをした人間でも弥陀の本願を信心しないかぎり救われることはない。そのことは知らなくてはならないことと思う。

 

3.補足説明

煩悩があるから人間である。

善人でも悪人でも(十方じっぽう衆生しゅじょう=すべての人)弥陀の本願を疑いなく信心し(煩悩をのり越える)、救われれば、「今生きている現世で絶対の幸福」と「死ねば極楽浄土に仏に生れることができる」と。

この二つが生きている時に「実現」と「はっきりします」と、親鸞聖人は自分の体験を通じて、教えられ、「早くしてください」と。うながされている。

絶対の幸福:いつまでも変わることのない幸福のこと。(相対の幸福ではないもの)

歎異抄はその著作者とされる親鸞聖人の弟子である唯円は、親鸞聖人の教えが正しく伝わっていないことで、「そのことなったことを、なげいて、作られたご本」という。

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